院進-k(インシンク)|大学院進学について考えるためのポータルサイト

院進-k(インシンク)|大学院進学について考えるためのポータルサイト

一度社会に出たからこそ、再度大学院へ戻るという選択について考えること【前編】

A氏のプロフィール:大学卒業後、大学院(修士学生)へ進学。一度社会人として約5年 研究開発職として働かれたのち、再び大学院(博士学生)へと戻られました。2018年新卒として民間企業へ就職されるご予定です。

インタビュアー:中川 小耶加
大学院修了(修士(学術))後、約5年間 金融業界で働く。その後大学院へ戻り、博士後期課程単位取得満期退学。2016年10月よりアカリクに入社。現在は、主にアカリクITイベントなどイベント関連の業務に従事。

■再生医療に魅せられてバイオの世界へ■

学部時代は応用生物化学科の所属ということですが、もともと生物や化学に興味があったのでしょうか

 そうですね。高校のとき、一番好きだった科目が生物でした。生物の授業で再生医療についてのビデオを見て、それを見たときに「すごい!」と感銘を受けたのがきっかけでした。そのときはぼんやりと「もし自分が働くことになったときには、再生医療の事業現場で活躍したいなぁ」と思って、バイオのスキルを身に着けられる大学を受験しました。入学後は実際に、バイオの勉強をすることができました。

大学院に進学されたきっかけはなんですか。所属されていた学部では、大学院に進学することは一般的だったのでしょうか

 僕が入った研究室は真面目に研究に取り組む研究室で、院進学する学生は比較的多かったです。僕も研究がとても楽しかったので、この研究室に残って研究を続けたいと思っていました。
でも大学全体としては、大学院に進学する人はそんなに多くなかったと思います。僕の出身大学はちょっと変わっていて、工学系と生物系と学部は2つだけで、文系はありません。基本9割ぐらいは就職して、1割程度の学生が院に進学していたという印象です。生物系と工学系はキャンパスも離れていて、僕がいた生物系では農学や細胞学、あるいは田植えの科学や日本酒の科学といった研究もしていました。
僕はマウスを使った初期発生の研究、受精卵がどのように分化していくかといった研究をしていました。再生医療に近いといえば近い分野ですね。その研究室を選び、進学も決めました。

修士に進む人は少ないということでしたが、そのまま博士課程に進まれる方は多かったのでしょうか

 内部進学は、本当にごく稀にいますね。僕の知る限りではひとりです。僕が知らないだけで、その方以外にもいるとは思いますが。でも、修士のときも博士のときも、進学するときに他の大学に出ていってしまう場合があります。外部の博士に進学した人はふたりほど知っているので、博士で外部進学する人の方が多いという印象です。

■最初の就職活動と食品開発との出会い■

ストレートに修士から博士へ進もうとは思わなかったのですか

 そのときは、あまり考えていなかったですね。修士を出たら就職しようって、なんとなく思っていました。特別な理由があったわけではないと思います。思いつく理由を少しあげるとするなら、博士に進学すると就職しづらいという情報をネットなどで見たことがあって、修士くらいで就職しておいた方がいいのかな、と思ったことですね。周りの人たちも修士を出たら働こうっていう雰囲気だったので、自然な流れとして、そのように決めていたと思います。

その後、食品会社で勤務されることになったと思いますが、就活時には業界の希望はあったのでしょうか

やはり再生医療と思っていましたが、そのときは再生医療の会社を探そうとしてもほとんど見つかりませんでした。当時はまだiPS細胞の山中先生がノーベル賞を取る前だったので、再生医療は今ほど脚光を浴びていませんでした。ちょっとタイミングが早かったので「本格的に再生医療を扱う会社です」って言っている会社は1社か2社くらいしかありませんでした。一応そういう会社も受けましたが、ご縁がありませんでした。そこで、農学系の大学院生であるというところから、プレゼン能力や論理的な思考能力といったスキルがあると考えて、そういった能力を活かせる場所を考えるようになりました。食品開発なら、自分の能力が活かせると思って、食品開発ができるところを受けました。

2年間、商品開発をされていたということですが、実際にはどういうことをされていたのでしょうか

 2年間まるまる食品開発をしていたのではなく、最初の半年は工場勤務でしたので、商品開発をしていたのは実際は一年半です。その会社は、コンビニのおにぎりを作るベンダーで、下請けでお弁当なども作っていました。僕は商品開発の中でも、すごくマニアックな宅配弁当の開発に回されて、そこは上司ひとりと僕、あとはパートのおばちゃんの3人の部署でした。本社開発全体だと30人くらいメンバーがいましたが、本社開発の中での宅配弁当担当が上司と僕だけでしたので、仕事は結構忙しくて、夜はかなり遅くまで働いていました。

商品開発をして、それを上司の方に報告するといった感じだったのでしょうか

 「こういうお弁当はどうでしょう」といったように企画を考えてから実際に作ってみて、できたら上司がコンビニ側にプレゼンに行くといった業務フローでした。企画を提案するのは上司ですが、企画が決まったら工場で生産できるようにマニュアルを作ったり、衛生面の安全を証明する書類を作ったりといった業務は僕の担当でした。
コンビニのお弁当って、煮魚のメニューがあまりないんですよ。焼き魚は焼成機に入れるだけなので簡単ですが、煮魚だと身がバラバラになってしまうので、他の煮物みたいに大きな釜でかき混ぜながら一気に煮ることができません。でも宅配事業のお弁当は、食品数がそんなに多くなく大量に作る必要がないので、バットと呼ばれる大きい容器に魚を並べて煮汁にあたるものを入れ、一緒に蒸し煮みたいにすることで調理可能だと考えました。この方法だと、商品に火が通っているという安全性を確かめながら煮崩れせずに作れるということで、一個商品化できたことが自信になりました。
でも、食品の世界って特許がないのでパクりパクられの世界なんですよ。もう次の月とかには煮魚がよそのコンビニに売られていたりとか、普通なんです。自分も商品開発しているときは、他者のお弁当を買って真似をするっていうことも仕事の一環としてやっていました。
自分で一からオリジナルの商品を作り出すというよりは、すでにあるものをお弁当に適した形にするという仕事が多かったですね。流行などにも敏感で、塩麹がすごく流行していた時期は、あれにもこれにも塩麹入れて、というように商品開発しましたね。
そうやって流行の物を取り入れてお弁当を作るのですが、すぐに他のものに入れ替わってしまう。自分の作ったものも、すぐになくなってしまうという虚しさのようなものはありましたね。

■再び再生医療の夢を追いかけ始めることに■

商品開発の仕事をしている最中に、国家プロジェクトの仕事を見つけたのですか

 そうです。商品開発の仕事はかなりハードで、夜も日付が変わるくらいまで働くことが普通でした。さらに震災時には、お弁当の原材料が不足していたのにも関わらず、お弁当をできるだけ作るようにというお達しがあって、原材料の入れ替えなどで夜遅くまで仕事をしました。そのときに「このまま続けるのはつらいなぁ」と思って、転職を考えるようになりました。
先ほども言ったのですが、お弁当の商品開発の仕事に対しては、新しいものを作ってもすぐに社会からなくなってしまうという虚しさを感じていました。自分が作ったものがずっと社会に貢献し続けていく仕事をやりたいと改めて思ったときに、iPSがノーベル賞を取って、もう一度再生医療が日本に普及するといった流れが来ました。一度は諦めたのですが、そこで再生医療に関わる仕事で再就職する決断をして、理系の研究者の特定派遣の会社に登録したところ、すぐに仕事を紹介してくれました。結局退職を決めて、最後の1か月は有給消化として過ごして、その間に次の国家プロジェクトの話が決まりました。1か月の間に、一応面接もあって、GW明けの5月からという契約で、タイムラグもなく国家プロジェクトに参加できるようになりました。本当に運がよかったと思います。

国家プロジェクトでは、どのような業務を担当されていたのでしょうか

 このプロジェクトは内閣府 最先端研究開発支援プログラム(以下:FIRST)というプログラムから予算が出ていて、複数の会社や大学が関わっていました。僕の働いていた会社を含めた何社かと東京女子医大がタッグを組んで取り組んでいました。
このプロジェクトは、患者さんの脚から取った筋芽細胞を1畳分くらいに拡大培養するための大量培養装置の開発を目的としていました。1畳分にまで培養した筋芽細胞から細胞シートというものを作り、患者さんの心臓にペタッとシールみたいに貼ると、心臓の機能が回復して虚血性心筋症という病気が改善するという基礎研究があります。それを医療現場で実際に用いるために、大量培養装置を開発するという国家プロジェクトでした。
僕の働いていたFIRSTに参加している会社では、社員で博士卒の研究者は2名だけで、それぞれ専門は機械ソフトウェアと生物工学でした。おふたりともバイオ分野の専門ではありませんでした。僕は培養の技術者として働いていました。具体的には細胞の準備や細胞が正しく成長しているかを試験するといった業務を担当していました。細胞が正しく増えていないと筋芽細胞比率という細胞の比率も変わってしまうことがあるのですが、その点の管理などは全て僕に任されていました。僕は派遣でしたが、ほかの研究者と同等に扱ってもらえました。食品会社では全く活かすことができなかったバイオの技術が、そこではしっかり活かすことができました。とはいっても、実際は2年間のブランクがありましたので、大学時代のノートをもう一回見直してみるなどして仕事を進めていきました。大学と大学院では合計4年間、バイオの勉強と実験をしていましたので、2年ブランクがあっても一応ちゃんと思い出すことができましたね。

2年間プロジェクトで働かれていたとのことですが、その後、プロジェクトは継続しなかったのでしょうか

 FIRSTは僕が入る前から始まっていて、僕が入ったときには装置の大枠はほぼ組み上がってる状態でした。そこまでは機械の専門家の方たちで、時間をかけて装置を作り上げたのだと思います。そして「さて細胞を入れて培養を始めよう」というところで、僕がバイオ専門の技術者として入りました。なので、プロジェクトの終わりの2年に参加したことになります。最後の2年の最終的な目標は、100万細胞を出発にして、10億細胞(1000倍)にするというものだったのですが、一応10億細胞に近い数字を達成できたので、プロジェクトは成功に終わりました。プロジェクトは成功したんですが、その大量培養装置が実際現場で使われるようには、まだまだ時間を要します。プロジェクトのお題目は達成しましたが、そこでプロジェクトは解散ということで、まだ実際の医療現場で使われるところには至っていません。FIRSTは、実用化の部分については今後の課題にするとして、まずは細胞を培養するという技術の確立を目指していたということになります。

プロジェクトに関わっているときは失敗や挑戦の繰り返しだったと思うのですが、大学院や食品会社で培ったものの中で一番役立ったと感じるものは何ですか

 チャレンジ精神ですね。プロジェクトでの仕事は、基本的に世界で誰もやったことのないことに挑戦するというものでしたので、わからないことだらけでしたし、やってみてもうまくいかないことが基本でした。なので、チームで「今度はこれをこう変えてみよう」とか「こうしてみよう」とか、いろいろなチャレンジを繰り返して、議論しながら仕事を進めるようにして乗り越えてきました。
もともと自分の気質としてチャレンジ精神が旺盛なところがあったと思います。よく就職活動で聞かれる「あなたの長所と短所は?」みたいな質問では、長所はチャレンジ精神があること、短所は無理なチャレンジもしてしまいがちな所だと答えていました。修士の頃は「まずはやってみよう」「とりあえず手を動かすことはしてみよう」「ダメだったらできるまでやればいい」という研究スタイルだったのですが、中には「それは考えれば、やる前から無理だよね」みたいなチャレンジもありました(笑)。
でも大量培養装置に関する実験では、一回の培養に20リットルの培養液を使うこともあります。普通の市販のボトルは500ミリリットル入りで1~2万円するので、20リットルっていうと40万円くらいになることもあります。しかも1回の試験で20リットル使いますので、1回の失敗で40万円の損失になります。また、準備から培養の終わりまで1か月かかることもあって、大学院時代のように気軽に「やってみよう」じゃできない仕事でした。綿密に計画を立て、失敗したときの事考えてバックアップをしっかり取り、計画的に実験を進めるという仕事の仕方を学びました。このように見通しをもって仕事を進めるやり方は、大学院では身につけられなかったので、だいぶ鍛えられました。

ここまでは、大学院在籍時から国家プロジェクトで働いていた時のお話を伺いました。次回は博士後期課程への進学と就職活動について伺います。


アカリクでは大学院進学を考える上での一助となるような活動を積極的に行っております。

記事についてのお問合わせは以下までお願いいたします。
※今後取材して欲しい人物や分野などのリクエストも受け付けています!

株式会社アカリク
「院進-k」事務局
Tel.:03-5464-2125
E-mail:info@acaric.jp

  • Twitter
  • Facebook
  • Google +
  • はてなブックマーク
  • pocket